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なにかあり/とくになし

ワン・マン・ビートルズ その3

エミット・ローズは
伝説のマルチ・ミュージシャンであり、
長い眠りから目を覚まそうとしている(のかもしれない)。


ドキュメンタリー・フィルムの上映と、
しどろもどろで
本質を避けるような対応しかしなかったとは言え
ファンの前に姿をあらわした質疑応答に続き、
なんとエミットは
サイン会までやるという。


今すぐこの店から逃走してしまいそうな態度を見ていた限り
彼がファンの求めに対し和気あいあいと応じる姿は
想像がつかなかった。


案の定、
即席で設けられた長テーブルに
メリー・ゴー・ラウンドのドラマー、ジョエル・ラーソンと
ベーシスト(リーヴスのメンバーでもあった)のビル・ラインハートは
さっさと着席をしたが
エミットの姿はさっきから見当たらなくなっていた。


エミットを相手にした司会という
超難事業をなんとかやりとげたアンドリュー・サンドヴァルに
ぼくは「おつかれさま」と声をかけた。


「タフだったね」


彼はちょっと苦笑いをしてみせたが、
それでも自分がエミットの大ファンであることは変わらないし、
何よりも
今日この場所に
エミット自身が自分の意志で来たということが
大事なんだと言っていた。


そうなんだ。
あれほど自分が主役であることがイヤそうな態度で
べろべろに酔っぱらわないと人前に出られないくらいなのに
彼はここに来たがっていたんだ。


やばい。
またこみ上げるものが。


映画は重要な作品だが
内容的には不満もあるとも彼は言った。


たしかに
それについてはぼくも同意したい部分もある。


一時間弱という尺はちょっと短いし
エミット・ローズの大ファンが作っているがゆえに
エミット・ローズについて何も知らないひとが見るには
情報不足な点が多いようにも感じられた。


とは言え
そうした作品としての不備をうわまわる真実を
現在のエミットは
なんの隠し立てもせずにさらしている。
そこに
かけがえのない感動はある。


まあ、そんなことは
アンドリューならとっくにわかっているか。


さて
主役不在のまま
サイン会はなし崩し的にはじまっている。


エミットはどこに行った?


このままバカ正直に列に並んでいるよりも
今にも失踪してしまいそうな彼を探し出した方が
早いかもしれない。


きょろきょろと店内を見回すと
奥のスタッフ・ルームのそばに彼はいた。
スタッフがサイン会の席につくようにうながしているのだが
彼は誰かと熱心に話し込んでいた。


おそらくそれは
熱心に話し込んでいるふりをしているだけなのだ。
サイン会にOKはしたかもしれないけれど
やっぱりそんな場所にはいたくない。
だからスタッフの言うことなんか聞こえないふり。
だって彼は
エミット・ローズなんだから。
だてに30数年間も
ひと目を避けて生きてきたわけじゃない。
ネガティヴに抵抗する術は心得ている。


今この狭い店内で
ぼくとエミットの距離は
10メートルと離れていない。


だが
その距離は永遠にも思えた。


はたして
ぼくはエミットに会えるだろうか。
気持ちが通じ合うことまでは望まない。
でも、
ぼくの心は少なからずガタガタと動いたのだということぐらいは
自分勝手に伝えたっていいだろ。


だって彼は
エミット・ローズなんだから。


つづく。