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なにかあり/とくになし

ワン・マン・ビートルズ その4

「ヘイ、エミット」
……とは、まだ言ってない。
すぐそこにエミット・ローズはいるのに、
ぼくはなかなか口を開けずにもごもごと繰り返してるだけ。


自分が主役のサイン会への出席を拒否するかのように
店の隅で
だれともしらない男性とそらぞらしく話し続けるエミットに
ぼくは背後から近づくことにしたのだ。


思い切って声をかけよう。
日本から来たんですと言おう。
本当はわざわざこのために来たのではないし、
ここに居合わせることが出来たのは偶然の要素が大きい。
だけど
その言葉で、
酒でくもった彼の感情が
一瞬でも正気を取り戻すかもしれないじゃないか。


ぼくは良いクジを引き当てたのだと信じたかったし、
何よりも
ここにいることはなにかの間違いではないと
彼にすこしでも思ってほしかった。


誰にそう思ってほしいか?
ぼくの目の前にいる
大きなだだっ子の
エミット・ローズに。


「ヘイ、エミ……」


そのとき
ぼくの思いをかわすように
不意にエミットはからだの向きを変え
ゆるゆると歩き出した。
どうやらスタッフの熱心な進言を
急に聞き入れる気分になったらしい。


目隠して運ばれるひとみたいな歩みで
彼はサイン会の行われている長テーブルのうしろに到着。
エミットがその気になったらしいと
ファンからは大きな拍手が起こった。


ところが
そのあたたかい拍手と歓声に
またしてもヘソを曲げてしまったのだろうか。
旧友たちが席を空けて座れよと薦めても
それに応じようとしない。


ふらふらと上下左右に揺れながら
巧妙に誘いをかわすその姿は
自分ひとりだけみんなと違う小舟に乗っていて
波に遊ばれるままに岸にたどりつけない難破者にも見える。


たまりかねて
ひとりの男性ファンがテーブルの脇をすり抜け
彼に近寄った。


その手には
まだ20歳そこそこの彼の姿を映した
A&Mでのファースト・ソロ・アルバムが見える。


水色のTシャツを着て腕を組み、
これからどんなに素晴らしい音楽を作ってやろうかと
理想に燃える若者がそのジャケットにはいた。


男性はエミットにサインを求めつつ
なにかを話しかけていた。
「大好きです」とか「会えてうれしいです」とか
そういう類の短い求愛の言葉だろう。


エミットは
ものぐさそうにペンを内ポケットから探すふりをして
彼の求めに応じた。


だが、
次の瞬間、
彼のスーツの内側から出て来たのは
栓抜きとフォークだった。


なんなんだ、そのだれもつっこめないボケは。


あっはっはっはと
エミットの笑い声がさびしく響いた。


ああ、ぼくとエミットの距離は
まだまだ遠い。


ファンのサインになかなか応じようとしない主役に
さっとマジックペンを渡し、
弱すぎるヒーローの退路を断ったのは旧友ジョエル・ラーソンだった。


質疑応答でも
ジョエルは確かな記憶力と明るい人柄で大きな器量を見せ、
極端にナーバスになってしまったエミットを気遣いつつ
何とかイベントの解体を食い止めてみせていた。


ジョエルの後押しもあって、
着席してファンと相対することは相変わらず拒否しているものの、
突っ立ったままではあるが
エミットはようやくサインに応じはじめた。


ファンの群れは自然と彼を取り囲んだ。
ついさっきまであった
エミットをめぐる緊張はいくぶん緩和し、
ファンの中には自分の名前も宛書きしてほしいとリクエストする者もいた。


メリー・ゴー・ラウンドと
ソロ作4枚すべてを持ってきていた男性ファンもいたが、
エミットはそのうち2枚だけにサインして
彼にぷいっと背中を向けた。


なにか書きたくない事情があったのか
それともただの気まぐれか
それはだれにもわからない。


ぼくが手にしているのは
彼がこのイベントに現れると知ってあわてて買った
メリー・ゴー・ラウンドの
サンデイズドから出た再発LPで
わざわざ日本から来たにしては説得力が薄い代物。


だが
今のエミットにとってはむしろ
これくらい軽い思い入れの方が
受け止めやすいかもしれない。


そうだそうだ。
過剰な思い入れは
彼を萎縮させるだけだ、きっと、たぶん、なんとなく。


ちょっといやな汗を感じながら
今度こそ
一歩前へ。


「ヘイ、エミット」


「んあ……?」


50センチほどの距離に近づいてはっきりとわかる。
ものすごく酒臭い。


「日本の東京から来ました。会えてうれしいです」


ふうむ……?
不意を突かれたかのように
彼はぼくを見た。
あるいは
見たように見せかけた。
あるいは
見たようにぼくは思い込んだ。
そのどれでもいい。
もうそんな解釈なんかどうだってよかった。


「サインを、ください」


あと一回だけ
つづく。