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なにかあり/とくになし

ゆわく

星野源のアルバム「ばかのうた」に出てくる
もっとも奇妙な言葉のひとつが
“ゆわく”だ。


湯が沸くのではなく
“結わく”。


ばらばらになったものを束ねたり
つなぎ止めたりすることを指す
かなり古い言葉だと思う。


アルバムの4曲目「茶碗」に
“ゆわこう”と活用されて登場する。


この言葉、
ひょっとして西日本にルーツがあるのか、
実家の熊本にいたころ
母親が「それゆわいとって」と言うのを
よく聞いた記憶がある。


“ゆわく”というニュアンスには
独特のやわらかさがあった。
きつく縛ってほしいときは
母は“きびる”という言葉を使った。


そのせいか
この現代ではめったに聞かない言葉が
ぼくには妙になつかしかった。


この“ゆわく”が登場する「茶碗」を
はじめて聴いたときはたじろいだ。


星野源29歳、
老成するにもほどがあるだろうと。


気を取り直して
「茶碗」をよく聴くと
うたわれている物語は
架空の老夫婦のことだとわかる。
主人公は奥さん。
だから女言葉。
夫婦の紡いだ年月が
茶碗や風呂場を通じて語られる。


ノー・フューチャーどころか
リアル・フューチャー。
こんなロックは聴いたことない。


だが
その淡いホームドラマ風の
日常のひとこまに
うそみたいなしあわせに感じるのは
もう会えないひとを思い出すようなせつなさ。


ほがらかなメロディや
うたわれているしあわせな内容とは裏腹に
どこかから染み出してきて
しつこくつきまとう苦い感傷。


そういう説明できないかなしみを
星野源自身を語り手にして吐露したのが「ばらばら」で、
ひとつの物語として成立させようとしたのが
「茶碗」であり「老夫婦」なのだろう。


しかし、
この「茶碗」という曲は
何年か前に書かれた「ばらばら」よりも
ちょっとだけ違って聴こえる。


それは
ばらばらなままの人生を嘆きながら生きるよりも
“ゆわこう”という言葉選びに象徴されるような
過去と現在と、
知らない未来とを
やわらかくつなげられたらと願う希望みたいなものが
感じられるからかもしれない。


そのトーンは
「ばらばら」を起点にして
アルバム全体を
川のように流れてゆく。


海が近くなったところに浮上するのが
細野晴臣作曲の「ただいま」。
それはまた次に書く。


「ばかのうた」を聴きながら その2