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なにかあり/とくになし

空港にて

帰国便にチェックインしようとして
「成田まで」と
口に出したとき
自分の声が
思ったよりもずっと枯れているのがわかった。


今回の旅程中
ぶすぶすとずっと引っ張ってきた風邪菌。
熱っぽさはどうやらなくなったものの
最後の一晩に喉をひとしきりいぶしてくれたようで、
かなりのハスキー・ヴォイスになってしまった。


帰国直後に取材の予定とかなくて
ホントよかった。


ところで
ぼくが乗るはずだったフライトだが
係員が「ちょっとアンタたち待ってて」と
チェックインの進行を止めた。


その後しばらく待っていたら
機体の都合でキャンセルというアナウンス。
ただし
代替便を今用意しているので
なんとか予定通りに飛ばすようがんばってるから
ちょっとこのまま待っててねというニュアンス。


「マジかよ〜」と
嘆く声もかすれてしまっていた。


もしこの便が飛ばなかったら
時間的に日本行きは今日はなくなるから
たぶん空港の近くにホテルが用意されて
そこに缶詰めだ。


まあ
遅れてる原稿をそこで書けばいいのか。
それとも電車かバスでハリウッドまで出て
なんか物色するか。
今回は結構散財したから
もう現金があんまり残ってないけど……。


そう思いつつ
なんか時間をつぶせる本はないかと
カバンのなかをまさぐったら
ラップトップの脇から一冊。


大杉栄日本脱出記」(土曜社)。


1923年
日本帝国軍憲兵大尉の甘糟正彦に
妻・伊藤野枝とともに虐殺されたことでのみでしか
日本史上で語られる機会のないこのアナキスト
すぐれた日本人ビートニクであったことを示す一冊。


まさにその惨殺事件の起きる直前に
海外密航を試みた彼の冒険心と茶目っ気が
鮮やかに舞い踊っている。


谷譲二「踊る地平線」の
大陸〜ヨーロッパ版と讃える声があるのもわかる。


岩波文庫にも昔から所収されているが
この現代仮名遣い版で読むと
まるで今の人間が書いたようだよと知り合いに薦められて
ずっとカバンに入れっぱなしにしたまま渡米していたのだ。


戦前の日本でもあるまいし
禁書を取り出したことをとがめられるんじゃないかと
あたりを思わず見回して
パッとページをめくる。


「どうせどこかの牢屋を見物するだろうということは、
 出かけるときのプログラムの中にもあったんだが、
 とうとうそれをパリでやっちゃった。」(96ページ)


「やっちゃった」か……。


教科書や参考書のなかにしかいなかった
黒ずんでもやもやとした大杉栄の写真が
一気にぱあっと鮮明になり
なつかしい友人のように
ぼくに近づいてくる。
洒脱で
ビートの効いた行間に
ずぶずぶと飲み込まれてゆきそうになる。


そのときだ。


「よっ!」


うしろから肩に手がかかって、ビクっ!


振り返ると
係員のおばちゃんだった。


「東京行き、代替機手配完了、チェックイン始めます〜!」と
大きなアナウンス。
待ちくたびれた乗客たちと
乗務員たちが
あわただしく動き始めた。


この続きは機内で読むだろうか。
日本に帰るのに
「日本脱出記」を読むのは
とても無粋な気がする。
もうすこし
次にぼくが宙ぶらりになるまで
旅行カバンの中に眠らせておくのがいいかもしれない。


それとも
パスポートの代わりに
この本を出して
かすれた声で
こう言うか。


「すいません、
 日本に帰るの
 これ読み終えるまで
 ちょっとやめときます」